いにしえの伊勢  home

内宮界隈 商店・施設

宇治橋公園

 宇治橋公園は昭和7年(1932)年3月に現「(財)修養団  伊勢青少年研修センターの場所に開設されました。ここには、大橋館から宇仁館の傘下となった對泉閣がありました。

宇治橋公園パンフレット
原寸:長辺38.4㎝×短辺13.2㎝
印刷:絵画研究会印刷工藝社



『伊勢朝報』昭和7年3月27日(日曜日)
原寸:長辺79.1㎝×短辺55㎝

こちらをクリックするとPDFファイルが開きます。

 公園は「地方の有力者により」對泉閣周辺をさらに開拓して、運動遊技場・参宮館・二千人以上を収用することができる二階建ての無用休憩所・手荷物預所を建設し、昭和7年3月10日に開園しました。開園式では、宇治山田商工会議所の会頭で宇治橋公園顧問の西田周吉氏(宇仁館の経営者)が挨拶を兼ね公園の趣旨説明と将来の抱負を述べました。(『伊勢朝報』)ここにある有力者とは『伊勢朝報』の本文と広告および「宇治橋公園パンフレット」表面地図に記載のある「宇仁館」「杉本屋」「中村(太助)商店」「小津写真館」が中心であったと考えられます。
 昭和10(1935)年9月に発行された『昭和10年 市勢要覧』の「会社及び工場」の項には、「(名称)合名會社 宇治橋公園 (所在地)宇治山田市今在家町 (創立年月)昭和六年五月 (主要業務)遊覽塲の經營 (代表者氏名)西田一雄」との記載があります。なお、西田一雄氏は西田周吉氏の長男で、長年「宇仁館別館千秋楼」を運営していました。そして、周吉氏没後は戦後まで宇仁館チェーンを維持なさった方です。一方、中村太助商店の『伊勢參宮の栞』には「
弊店は宇治橋公園内に參宮館を経營致して居ります。」とあります。よって代表者は宇仁館の西田氏でありましたが、実質的な経営は中村太助商店が担っていたと考えられます。


平成20年8月23日撮影
左:伊勢朝報裏面右下宇治橋公園全景に近いアングル
中:  〃   最上段右から二枚目に近いアングル
右:  〃   上から二段目楕円形写真に近いアングル

 左写真右側の白壁の住宅の左側の茶色シャッターの辺りが、「伊勢朝報」右下「宇治橋公園全景」の自動車が描かれている所です。その上方に白い縦長のものは「(財)修養団  伊勢青少年研修センター」看板です。「伊勢朝報」には「宇治橋公園」の看板が描かれています。また、「伊勢朝報」自動車の右上に描かれているアーチ状の箇所は手前に住宅があるため、このアングルからの撮影は不可能でしたが、現存していることを確認しました。
 中写真は伊勢青少年研修センターから朝熊山方面を、右写真は内宮方面を撮ったものです。



参宮館絵葉書
印刷:絵画研究会
 「宇治橋公園パンフレット」裏面の説明文とともに紹介をします。(説明文の旧漢字はsadanaiが改めました。)

参宮館の内容
 参宮館は、神宮の御事蹟及び我国歴史上の重大史実、古来の伊勢参宮風俗、神都の民人が神恩奉謝の至念を捧げて、神宮に奉仕せる淳朴なる郷土風俗等を、精巧なる十三場面のパノラマに、最新式電気応用自働装置によりて其の実態を表現したるものにして国民精神の作興に資すべく、真に我国体の精華を登揚せる神都唯一の施設である、本館を一覧して始めて伊勢参宮をして意義あらしむるものといふを憚らない、左(注:原文ママ)に各場面の概要を摘記する。

左:たとう 原寸:長辺14.8㎝×短辺9.9㎝

中:表面  原寸:長辺13.8㎝×短辺9㎝
右:一、神宮御造営御用材の奉曳……陸曳きの盛儀
 伊勢紳宮に二十年毎に新しく御造替相成る古来の制度である、その御用材は木曽御料林から伐探ぜらる、(陸曳)と申すは宮川貯木場に保管されたる御用材を、特に新調ぜられた御木曳き車に奉載して旧神領民、即ち宇治山田市及び附近町村民が挙って神恩報謝する盛大なる行事である、本場面は間口四間

二、神宮御造営御用材の奉曳……川曳きの盛儀
 五十鈴川水流を利用して御用材な内宮工作場へ運搬する所から陸曳きに対して川曳きといふ、本場面は間口三間半、大正十一年五月の奉曵行事を模写したもので、久邇宮殿下御一族の方々にも御台覧遊ばれた盛事中の最も盛大な場面である
中:三、倭姫命、大宮地御選足
 今を距る一干九百三十余年前(紀元六百五十七年)垂仁天皇の二十六年、皇女倭姫命、勅命を奉じ給ひて、皇大榊の鎮り坐す大宮地な定め奉るため、近畿各地な経めぐり給ひて伊勢の国に御遷幸、数々の御辛酸な嘗めさぜられたる末、猿田彦命の末裔太田命の御教導により、五十鈴川の上に大宮地を定めさぜ給ひ、こヽに始めて神宮を御創建遊ばされた史実を、間口三問の本場面に模写したものである
右:四、神宮式年正遷宮祭……神儀渡御の厳儀

 伊勢紳宮に二十年毎に新しく殿舎を御造営相成り旧殿舎より新殿に御遷り遊ばさる、これを式年正遷宮と申し奉る、その第五十八回目の式年正遷宮は、昭和四年十月二日内宮、同五日外宮に於て執り行はせられ奉遷勅使以下三百余名の神官奉仕、皇族方な御代表遊ばされた各宮殿下な始め奉り、内閣総理大臣以下文武百官参列し、いとも厳粛壮重に御遜宮式を執行はれた、この日、聖上陛下には畏こくも神儀渡御の御時刻、宮中に於ぜられて親しく神宮を御遙拝御遊されたと拝承する、此の場面は間口十間


五、宇沿橋渡始式の盛典
 五十鈴川の清流に架ぜられてゐる宇治橋は神宮御造替の度毎に新しく架換へられる御例である、用材は全部木曽御料林の檜材、橋脚には欅の大材を用ゐられ長さ五十一間、幅員四間の神々しい大橋である、この場面は古儀に則り旧神領内の由緒正しき三夫婦揃つた家から渡り女を撰み、昭和四年九月に行はれれ渡始め式の盛典である間口三間
中:六、伊勢神宮の舞楽……陪臚破陣楽(バイロハジンラク)
神宮に於かせられては幾種かの舞がが行はるヽ、陪臚破陣楽は其うちの林邑八楽の一つで、単に陪臚とも称されてゐる往昔よリ陣中に於て多く用ゐられ、戦勝を祈り或は凱旋を祝賀する舞曲として行はれたもので日清戦役の際、平和克復の御賀宴にも此の曲を奏ぜさせ給ひしといふ芽出たき舞楽である、間口四間
右:
七、明治天皇神宮御親……鹵簿宇治橋通御
 明治天皇は、神宮御崇敬の御思召殊の外篤く在しまし明治二年以来数次、神宮を御親謁ありて範を我等国民に御示し遊ばされ、又中世以降廃絶してゐた神宮の諸祭典、行事、諸制度を御復興遊ばされた御事蹟は、実に枚枚挙に遑ない程である、この場面は日露戦役後の明治三十八年一月十八日文武百官を随へさせられ、神宮を御親謁、平和克復を御奉告遊ばされた時鹵簿宇治橋通御の御模様を謹写したものである、間口四間

左:八、日露役凱旋の東郷司令長官奉告参拝……贄崎港上陸の光景

 日露戦役、日本海の大海戦に露国の東航艦隊を撃破、全減ぜしめて国威を全世界に輝かした、時の聯合艦隊司令長官東郷大将が、凱旋の途次全艦隊を率ゐて先づ伊勢湾に入り、幕僚を随へて贄崎港(津市)から上陸、神宮を参拝して神明の加護を親しく奉謝ぜられた当時の光景である。問口四間
中:九、伊勢の神風……元の兵船を覆滅す
 弘安四年七月元の精兵十万、数百の兵船を列ねて我国に来寇した時畏くも亀山天皇には御震筆の宣命を伊勢神宮に奉らぜ給ひ身を以て国難に代らむと御祈祷遊ばされた、ある日神風俄かに吹き起り一夜にして元の兵船を悉く覆滅せしめ生きて還るもの僅かに数人、元をて再び我国を窺はしめず、神明の加護によリ国威を中外に宣揚したろ有名なる史実である、間口四間
右:十、宇治橋の景趣……今は廃絶した「網受け」
 豊臣時代から明治三十七年一月禁止される迄の長い間神橋宇治橋の下に立ち、伊勢参宮客の投銭を受けた綱受けは、当時参宮旅客の間に非常に興味深きもとして迎へられ、伊勢名物の一つに算へられれものである、今は其の面影をすら偲ぶよすがもない、その起原は戦国時代織田催長の臣鳥谷尾左京なるものが、綱笠を竹の先につけて投げ銭を乞ひ、世を渡つたに始まると伝へられて居る

左:十一、往昔のお蔭参り……桜の名所、宮川堤の賑ひ橋
 お蔭参りは伊勢のぬけまいりをもいひて、江戸時代には熾んに行はれたものである、明和の御蔭参りは、交組の不便な時代にも拘らす、神都に群衆した参宮人は、一日二十万人を算へ、斯うした賑ひが数ケ月も続いて行はれたとは、当時の文献に載するところである、此お隆参リは後に団参となり、揃ひの衣装や花万燈などを持出して伎戯舞踊しつヽ、全国の津々浦々から伊勢へ伊勢へと賑やかに群衆したものである、間口三間半
中:十二、古市廓と伊勢音頭……菊寿楼、杉本屋の舞台
 元文頃から参宮旅客の間にもて囃された伊勢音頭は今猶古市遊廓に其名残を留めて盛んに催されてゐろ、時代の変遷に伴ひてだんだん改善せられ、踊り子も非常に美化されるに至り、昔ながらの手振りを其まヽに伝へた情趣を写したものである、間口四間
右:十三、伊勢参りとお杉お玉
 伊勢参宮街道、間の山のお杉お玉は小さい小屋掛けの内で掻き鳴らす三味線、胡弓の音も賑やかに、節おもしろき歌を唄ひつつ、手振おかしく若い女が踊りながら、参宮旅客の投げ銭を乞ふたもので、其の起源は詳らかならざるもお杉お玉といふ二人の娘が親仇讐を探ねるために、伊勢大神宮に祈願しつヽ毎日参宮街道にうら若い身を曝して芸を売ったことに初まると伝へられてゐる、間口三間半


〔参考文献〕
秋田耕司 『宇仁館物語』 平成30年8月 NFC技研 p.8
宇治山田市役所『昭和十年 市勢要覽』 昭和10年9月 鎌田千代之助 p.55

〔取材御協力〕
 本記事掲載の写真の撮影につきましては、(財)修養団  伊勢青少年研修センターの職員の方のご協力を頂きました。有り難うございました。


©2020 sadanai               home