宇治山田駅・古市・倉田山界隈 旅館
十五楼
野村可通『伊勢の古市あれこれ』によると、十五楼は通称「五二会道」のすぐ南(筆者注:古市街道から青葉台団地に上がる道の南側・現ローソン伊勢尾上町店のあたり)にあり、隆盛を極めましたが、大正期に衰退しました。再興を図り一誉坊墓地北側(注原文ママ 現在の天理教三重教務支庁の場所)に移転しましたが、再建はかなわなかったそうです。
左:『宇治山田市及鳥羽町付近新地図』明治44年より
写真原寸縦6㎝×横8.5㎝
中:平成22年11月28日撮影
右:平成29年12月29日撮影
『宇治山田市及鳥羽町付近新地図』の尾上町に関する説明文には、「虎尾山山上に五二会ホテルあり、山下に勅使齋館なる十文字屋あり」とあります。また、井沢武『伊勢みやげ旅寝之友』(明治30年3月)には「十文字屋(黒部かね)は十五楼とて第一位の上等旅館にして、毎年、御勅使の宿泊所なり、国道の右側にあり」とあります。さらに、坂本広太郎『伊勢参宮案内記』(明治39年11月)には「十五楼 勅使参向の定宿、清潔な上品なことは、何よりの証拠」とあります。
従ってこの旅館は、最初「十文字屋」と称していましたが、明治中期以降「十五楼(勅使齋館)」と呼ぶようになったようです。尾上町のMISUZU様のお話では、戦後もその場所の建物を「齋館」と呼んでいたそうです。
また、写真左門柱右側後方に写っている建物が五二会ホテルです。
写真中のように以前、十五楼の場所には「三重県真珠株式会社」がありましたが、写真右の通り現在は「ローソン伊勢尾上町店」になっています。
左:十五楼奥室 発行者・印刷所不明
原寸:縦9㎝×横14.1㎝
右:十五楼庭園 発行者・印刷所不明
原寸:縦8.9㎝×横14.1㎝
十五楼印絵葉書
左:裏面 右:表面
原寸縦8.9㎝×横14㎝ 発行者不明
表面の消印は、明治29(1896)年11月21日です
伊勢山田 新築記念 勅使高級旅館 十五楼
左:たとう 原寸:長辺14.2㎝×短辺9.7㎝
右:絵葉書表面 原寸:長辺14.2㎝×短辺9.1㎝
左:玄関 中:全景・勅使の間 右:正面・寄贈の間
右「全景写真」は、神都希望館と同じ建物です。
大正11(1922)年発行の『三重県商工案内』には大正9(1920)年末現在の記録として「旅館業 十文字屋(十五楼) 黒部かね」とあります。よって、移転はこの後だと考えられます。
また、『宇仁館』チラシによると、十五楼の建物は大正15(1926)年に宇治山田駅前宇仁館別館藤屋の「裏三階楼」として移築されました。
よって、十五楼は大正9年から15年の間に倭町に移転をしましたが、神都希望館が開館した昭和4(1929)年以前に希望社へ売却されたと考えられます。
※本稿は『史料 皇學館大学史料編纂所報』第228号に掲載した記事を元に編集をしました。『史料』記事の訂正が2件あります。
(1)
参考文献として提示した、井沢武『伊勢みやげ旅寝之友』(明治23年4月)が山崎永太郎編『伊勢参宮按内記』(明治30年3月)の誤りでした。
(2)
地図所収の画像中の電話番号が2桁、絵葉書の電話番号が3桁であるため、絵葉書の画像の方が新しい時代のものだと思われると記述しました。しかし、伊勢郷土史研究家である秋田耕司さんの『復刻 明治41年度版宇治山田市電話番号簿』によると、56番は古市の旅館「芳虎」の名義で、156番が「十五楼」の名義となっています。よって、地図の電話番号の誤りでした。
〔参考文献〕
山崎永太郎編 『伊勢参宮按内記』 p.53
明治30年3月 川勝鴻寶堂
坂本広太郎 『伊勢参宮案内記』 p.141
明治39年11月 交通益社
三重県勧業協会編 『三重県商工案内』
大正11年10月 三重県勧業協会
p.33
野村可通 『伊勢の古市あれこれ』 p.51
昭和51年3月 三重県郷土資料刊行会
秋田耕司 『復刻 明治41年度版宇治山田市電話番号簿』
令和2年4月 p.2・4・9・10・13・14
皇學館大学史料編纂所
『史料 皇學館大学史料編纂所所報』第228号
平成22年12月 皇學館大学史料編纂所
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