その他 絵葉書集
伊勢の名勝
明治44(1911)年5月3日のスタンプが捺されている「伊勢の名勝」絵はがきです。発行は浪越写真製版所です。
左:たとう表面 中:たとう裏面 原寸 長辺17.1㎝×短辺10.2㎝
右:絵葉書表面 原寸 長辺16㎝×短辺9㎝
たとう裏面には「拾七銭(17銭)」のスタンプがあります。表面の左端には「浪越写真製版発行」「郵便として使用せらるる時は必ず此線より切り取らるべし」「〔実用新案第五一九二三号〕」と印刷されています。なお、実用新案法(旧法)は明治38(1905)年に制定されています。
左:外宮神苑
苑の広さ三町五反余歩、四季の樹木を植え水泉を湛へ清閑雅致の越を添ふ、苑中一ノ鳥居口橋を渡り正面に見ゆるは一ノ鳥居なり右方の喬木は有名なる清盛楠なり
中:豊受大神を奉祀
雄略天皇の御代神勅に依りて度会神主の祖先大佐々命を遣し丹波国比治真名井原より奉還し給ふ宮域広大高樹喬木蔚蒼神威の畏きを覚ゆ。
かけまくも畏き豊の宮柱直き心は空に知らるヽる 俊成
右:伊勢音頭
古市町妓楼備前屋にて演ず、其起源は往昔歌垣と称せし踊をなす習俗ありしか後年更に盆踊河崎音頭など流行せしをかれ之折衷して伊勢音頭を作り遊女に踊らしむ、舞曲変化に乏しけれど古風にして一種独特の節あるを以て観覧客尠(筆者注:すくな)からず
左:宇治橋
内宮神苑の入口五十鈴川に架れり、古来此橋下に編受けと称し参拝人の投ぐる銭を巧みに受け止めたることありしが今はなし、
中:日本海戦捷記念碑
内宮神苑の北辺に直立する砲身之れなり、明治三七年戦役日本海々戦に於ける分捕砲にして防御網を以て垣とす、呉海軍工廠より献納にかかる赫々たる戦捷の名誉は斯碑と共に永世に伝はるべし
右:内宮神苑
宇治橋以内宮域に至る間二町五反余歩に神路山を負い前に五十鈴川を控へ、樹木泉石何れも清浄なり正面一ノ鳥居を過ぎ参拝を了り此の間を逍遙すれは爽快を覚ゆ、苑内に戦捷記念砲数多あり
左:五十鈴川内宮手洗場 (同じ絵はがきが2枚入っていました。そのうち1枚です)
此川は一に御裳濯川と云ひ往古倭姫命此の水に御裳を濯ぎ給ひし斯く名付けたりとそ、又此川の西岸に鳩口と云へる紅葉の名所あり降霜の季枝を曳く者多し
中:皇大神宮と称し
天照大神を齋き祀る謹んで按するに垂仁天皇御宇皇女倭姫命を御杖代とし、大和国より伊賀近江美濃を経て此地に鎮座し給へり。
何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるヽ 西行法師
右:二見浦立石
山田より二里余、地は白砂青松、其長汀の窮る所大小二個の巨巖海中に屹立す、之を立石又は夫婦岩と称す図は旭日昇天の景にして壮観云はん方なし、此地は夏季海水浴の好適地として知らる
中写真は古殿地となっている東御敷地から西御敷地を写したものです。明治22(1889)年第56回式年遷宮の社殿だと考えられます。この時の遷宮から東西宝殿がこの写真のように御正宮の東北及び西北に建てられました。天正13(1585)年から明治22年までは御正宮と東西宝殿がほぼ一直線に並んでいました。
〔参考文献〕
写真集伊勢編集委員会編
『写真集 明治 大正 昭和 伊勢 二見 小俣』
昭和61年8月 国書刊行会 p.4
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