内宮界隈 商店・施設
伊勢離宮
伊勢の旅行案内等を見ていると、中村町の月読宮の近くに「伊勢離宮」「離宮御敷地」等の記載があります。
『宇治山田市史』によると、昭和3(1928)年7月1日から10月10日と12月10日から13日の95日間で青年会員・在郷軍人会員の労役奉仕員のべ1万余人により地均工事が行なわれたとあります。また、昭和18(1943)年に宇治山田市が発行した観光案内「神都」にも「伊勢離宮御敷地」として『宇治山田市史』と同様の説明があります。
『伊勢市史』の「神都離宮」の項によると、大正10(1921)年四日市の実業家である熊沢一衛が離宮設置のため中村から楠部地域の123400万平米の土地を買収し、県に寄付した。整地・献木は完了した。大正15(1926)年6月12日官地となり、7月12日に宮内庁に献納、8月5日に宮殿指定を受けた。時の市長福地曲廉は、宮内省に離宮造営申請したが12月25日に大正天皇が崩御し離宮造営が実現しなかったとあります。なお、昭和3年の整地について『宇治山田市史』を参照して書いたと見られる記述があります。
さらに、国立公文書館デジタルアーカイブには「伊勢離宮」についての文書はみあたりません。
『伊勢市史』の記述に従えば、熊沢一衛によって離宮の用地が献納され国有地となり、離宮造営の申請がなされたものの、大正天皇の崩御によって計画は頓挫しました。昭和に入ってから民間の手により整地が行われたものの離宮の造営はなされないまま第2次世界大戦を迎えることになったということだと考えられます。ただ、検討の余地があると思われます。
また、『伊勢市史 近代編』には伊勢離宮自体の記事はありません。「日中戦争・太平洋戦争と地域」の項に、昭和20(1945)年、五十鈴中学校北側の伊勢離宮予定地に高射砲が設置され、その弾薬を入れる「砲側弾薬庫」が現在も残っているとの記述があります。
伊勢離宮御造営絵葉書
原寸:長辺14㎝×短辺9㎝
印刷:絵画研究会
左:伊勢離宮御造営標柱 中:鍬初の修祓式 右:皇居遙拝
スタンプには「伊勢離宮御造営 昭和三年自七月至十月 三重県連合青年団」とあります。よって当初は10月までに作業を完了する予定であったのが、12月に追加で作業を行ったのではないかと考えられます。
令和2年11月14日撮影
左:砲側弾薬庫付近全景 中:五十鈴川中学校北側より 右及び下:砲側弾薬庫近景