宇治山田駅・古市・倉田山界隈 旅館
寂照寺
寂照寺は、延宝5年(1677年)に知恩院37世玄誉寂照知鑑和尚により、徳川秀忠(2代将軍)の息女で豊臣秀頼に嫁いだ千姫を弔うために創建されました。また、安永3年(1774年)月僊によって再興されました。明治14(1881)年5月の火災で経蔵と表門以外は消失しました。明治23年に本堂が、明治43年には庫裏が再建されました。
月僊は寛保元(1741)年尾張に生まれ、7歳で得度し10代で江戸増上寺に入りました。そこでの修行とともに、雪舟派の画人桜井雪館に画術を学んだと言われています。その後、京都の知恩院で役僧を務め、38歳の時に寂照寺第8世を嗣ぎ再興をしました。京都では円山応挙に師事したとも言われています。
月僊金復興記念絵葉書
印刷:絵画研究会
左:たとう 原寸縦14.5㎝×横10.2㎝
中:榮松山寂照寺 山門前 原寸長辺14.1㎝×短辺9.1㎝
右:絵葉書表面
『宇治山田市史』によると「月僊金」とは、月僊が絵の執筆料1500両を山田奉行所に託し、その利金で宇治山田及び近郷の貧民を毎年12月に救済した。これは明治の初頭まで続き、それを「月僊金」「寂照寺金」と称したとあります。また、最近当地篤志家の間にこれの復興が計画されている、ともあります。
経堂前に大正15年9月に建立された「月僊金復興紀念碑」があります。月僊金復活に至る経緯は次の通りです。月僊近復活の提唱者は田中善助で、彼は月僊上人に私淑しており月僊金の事業が途絶していることが遺憾であった。そのため友人である村井恒蔵に相談したところ、二人でその復興を目指すことになった。しかし村井が逝去したので復興計画が中止になった。田中が大正九年に伊勢に行った際、寂照寺門前にあった月僊の事績を示す表示が木製で小さかったため、住職の松山源洲に相談し、同年三月に新たな石標を建立した。この時田中は改めて月僊金の復活を企画した。多くの賛同者を得て資金を募り、大正15年に3000円を宇治山田市に寄託した。これを貯金して100万円に達したら救済事業を始めるよう要望した。9月13日に宇治山田市の参事会を決議を得、市長澤瀉久富がその案を採用した。それを受けこの石碑に月僊近復興の由来と賛同者へ謝意を表すため芳名を記した。
月僊金復興紀念之碑 (原文) |
月僊上人ハ尾張人ナリ勢洲山田寂照寺ニ住ス夙ニ丹青ヲ嗜ミ研鑽年ヲ重ネテ |
遂ニ一基軸ヲ出〔いだ〕セリ冣〔もっと〕モ山水人物ニ長シ一タヒ彩管ヲ揮〔フル〕ヘハ神品立トコロ |
ニ成ル其名聲四方ニ聞コエ遠近ヲ請フ■絶エズ潤資積ミテ富巨萬ヲ致セリ天性 |
慈仁常ニ貧民ヲ救恤シ又力ヲ公益ニ竭〔けつ〕シ道路を開鑿シ橋梁ヲ架設シ晩年山門ヲ |
建テ佛殿ヲ修メ永代脩繕費トシテ金五百両ヲ(備)ヘ且廣ク経疏ヲ購フ皆潤資ヲ以 |
テ之ニ充ツ文化六年正月六十九歳ニシテ寂入ス先是同二年ノ冬金千五百両ヲ山田 |
奉行ヘ納メ窮民救助ノ永世基金トナサンコト請フ奉行之ヲ容レ利殖シテ神都 |
ノ貧民ヲ賑恤ス所謂月僊金即チ是ナリ惜哉維新ノ大變革ニ際シ竟〔つい〕ニ誂金ノ往ク |
所ヲ知ラス斯〔この〕業癈絶ニ属セリ予素〔も〕ト上人ニ私淑ス故ニ之ヲ難スルコト久シ曾テ |
友人村井恒蔵氏ニ諮ルニ月僊金ノ復興ヲ以テシ相倶ニ企劃スル所アリシニ偶(たまたま)同 |
氏ノ易簀〔えきさく〕ニ遇ヒ此事一タヒ止ム尋〔つい〕テ大正九年春要務ヲ帯ヒテ神都ニ在ルニ際 |
シ一日上人ノ墓ニ展スルヤ寂照寺門前ニ上人ノ遺址ヲ録セル一小木標ノ甚ダ憫〔あわれ〕 |
ムヘキモノアルヲ見テ深ク之ヲ悲ミ住職松山源洲師ニ謀リテ三月新ニ石標ヲ建 |
ツ予ガ再ビ月僊金ノ復興ヲ企テタルハ實ニ此時ニ在リ爾来弘〔ひろ〕ク大方諸賢ノ贊襄〔さんじょう〕 |
ヲ仰キ今茲ニ大正十五年宿志漸ク成リテ金三千圓ヲ宇治山田市ニ寄托シ之ヲ据置 |
貯金トシテ利殖ヲ図リ其壹百万圓ニ達スルヲ待チテ始メテ救済事業ニ着手セシ |
コトヲ望ミシニ九月十三日同市参事會ノ決議ヲ経テ市長澤瀉久富氏之ヲ採納セ |
ラル仍〔より〕テ碑ヲ書テ其由来記シ且贊襄者諸君ノ芳名を勒シテ謝意を表ス庶幾(こひねがは)ク |
ハ斯業ノ先覺者タル上人ノ遺徳ヲ顕揚スルト共ニ他日濟生救民ノ實ヲ擧ケ更ニ |
又世道風致ノ振作ニ資スルヲ得ン乎一言以テ後人ニ諗(つ)クト■爾 |
大正十五年九月 銕城田中善助謹誌 |
環山中村不折謹書并篆額 |
《記号の説明》 |
〔 〕……漢字の読み ( )……元の字を常用漢字に改めたもの |
■……筆者が判読できなかった文字 |
※口語文では濁点が必要と思われる箇所も原文のまま清音で表記している。 |
《語注》 |
夙ニ……以前から 丹青……絵画 冣モ……最も 彩管……絵筆 |
神品……芸術において非常にすぐれた人 竭シ……尽くす 開鑿……開削 |
脩繕……修繕 経疏……経典 癈絶……廃絶 |
村井恒蔵……実業家、政治家。大正4(1915)年12月1日没。三重県議、議長、初代宇治山田町長、市会議長を務める。山田銀行(のち三重銀行)、伊勢電気を創業した。 |
易簀……賢者が死ぬこと 尋テ……まもなく 展する……お参りする |
贊襄……助けて行うこと 採納……案などをとりあげて用いること。 |
勒す……彫る 世道……世の人々の道義 |
振作……人の気持ちや物事の勢いを盛んにすること |
風致……自然の風景などが持つおもむき。 諗ぐ……告げる |
田中善助……伊賀上野出身。巌倉水電・伊賀鉄道・朝熊登山鉄道等の創始、さらには榊原温泉の復興など、様々な三重県の事業に携わった実業家。「鉄城翁」とも呼ばれた。 |
中村不折……明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家・森鷗外の墓碑銘の揮毫者として知られる。「環山」とも称した。 |
月僊金復興紀念之碑
全体:平成20年12月31日sadanai撮影
部分:令和7年4月26日sadanaio撮影
月僊上人遺跡絵葉書
印刷:絵画研究会
左:たとう表面 広げた状態 原寸縦17.3㎝×横18.9㎝
中:たとう裏面
右:絵葉書表面 原寸縦9㎝×横14㎝
左:寂照寺表門風景 中:寂照寺境内・本堂・経堂・月僊金復興祈念碑
右:月僊上人の碑と墳墓
左:月僊上人の肖像画と遺墨富士山の霊峰 右:月僊上人筆涅槃像
富士山の図は縦67㎝×横93㎝の作品です。涅槃像は縦275㎝×横181㎝の作品で、寂照寺再建中に仮寓した尾上町清雲院で制作されたと伝えられています。なお、「富士の図」と「涅槃像」ともに伊勢市有形文化財に指定されています。
現在の様子
平成20年12月31日sadanai撮影
左:表門 右:本堂周辺 左:月僊上人碑
令和3年1月2日sadanai撮影
左:本堂・経堂 右:月僊上人墳墓
〔参考文献〕
宇治山田市 『宇治山田市史』 宇治山田市 昭和4年1月
p.337・1057・1212
伊勢市 『伊勢市史 第七巻 文化財編』 伊勢市 平成19年3月
p.248・260・467
伊勢商工会議所 『改訂新版 検定お伊勢さん【公式テキストブック】』
伊勢文化舎 平成28年11月 p.126・135
『月僊上人遺跡絵葉書』たとう裏面 「沿革・月僊上人小伝」
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