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光明寺
光明寺は、山号が金鼓山で、臨済宗東福寺派のお寺です。聖武天皇の勅願により天平年間に継橋郷前山に創建されたが、いつのまにか吹上に移されました。外宮の権禰宜度会氏は「世木」を屋号とし、光明寺は氏寺でもありました。
光明寺中興の祖に僧禅恵観(月波)がいます。恵観は光明寺の拡大に手腕を発揮しました。この頃北畠親房は恵観の力を頼みとし、恵観も危機に瀕した建武新政に呼応したとみられます。また、南朝勢力とも関わっており、延元3(1336)年に大湊から出帆した結城宗広が、海上で遭難後「吹上村」に到着し光明寺で病死しました。
天正年間(1573~92)神境付近では鐘を撞くことが禁じられてきたが、豊臣秀吉は光明寺において鐘を撞くことを許可しました。近世に梵鐘があったのは近辺では光明寺だけで、「光明寺の一つ鐘」と呼ばれていました。
寛文10(1670)年の山田の大火により光明寺は焼失し、吹上から現在地へ移転しました。明治維新時の廃仏毀釈により、塔頭四カ寺・末寺二カ寺が廃されました。
楠部町I様所蔵の絵葉書を紹介します。表面には、下から2分1の所に罫線がありますので、大正7年以降の発行だと考えられます。
左:たとう 原寸:縦17.8㎝×横20.9㎝
右:葉書表面 原寸:縦14.2㎝×横9㎝
たとうには、「山田市尾上町 上田屋写真製版 印行」とありますが、絵葉書には「星華商会印行」とあります。今のところ両者の関連は解りません。
右:南朝勤王遺蹟光明寺 庫裏・玄関・本堂
中:(左から)結城宗廣公墓碑 結城宗廣公所持の剱 在銘壽命 贈正二位結城宗廣公英像
右:中と同じものですが、別途入手したスタンプ有の絵葉書
左:(上から)(国宝)結城宗廣公及び内室の書翰 豊臣秀吉公朱印状
右:(上から)北畠親房卿袖判 (国宝)光明寺蔵書残篇の一部
平成20年1月26日撮影
左:庫裏 玄関 本堂 右:山門
令和3年1月2日撮影
左:光明寺境内石塔群入口 中:石塔群全景 右:結城宗廣公墓碑
この石塔群は、旧地吹上町に残されていましたが、昭和20(1945)年に光明寺境内に移設されました。結城宗廣公墓碑は石塔群の一番本堂側(左写真では一番右)です。
左:本堂・玄関 右:本堂棟部
本堂の棟の部分には、山号である「金鼓山」の文字ありました。平成20年の写真にはありません。軒丸瓦には「光明寺」とあります。
〔参考文献〕
『日本歴史地名大系 第24巻 三重県の地名』平凡社 昭和58年
伊勢市『伊勢市史 第7巻 文化財編』 伊勢市 平成19年3月
p.342