宮川~外宮界隈 施設・商店
山田駅前奉迎門(奉祝門)と昭和3年の行幸
戦前の行幸・行啓の際には山田駅(現JR・近鉄伊勢市駅)前に奉迎門が設置されました。
明治38年行幸
左:裏面 原寸:長辺14㎝×短辺9㎝ 右:表面
明治天皇が日露戦争後の平和克復の奉告のため、明治38(1905)年11月16日に外宮、17日に内宮へ行幸した際の奉迎門です。表面には明治38年11月17日の消印が捺されています。
明治38年行幸 I様所蔵資料
原寸:長辺22㎝×短辺18.1㎝
尾上町I様の所蔵資料です。裏面には「伊勢山田岡本町 真野写真館」のスタンプが捺されています。
明治44年5月 皇后陛下行啓
左:裏面 原寸:長辺14㎝×短辺9㎝ 右:表面
明治天皇の皇后陛下が、明治44年5月20日に外宮、21日に内宮を御参拝なさった時の奉迎門です。実逓便で、同年5月26日の消印が捺されています。
大正4年10月 裕仁親王行啓?
左:裏面 原寸:長辺14.1㎝×短辺9㎝ 右:表面
4年10月14日のスタンプが捺されています。宇仁館や高千穂館の様子から大正4年のものと考えられます。『伊勢市史』巻末年表によると、大正4年7月6日に裕仁親王(後の昭和天皇)が両宮に参拝したとありますので、その時の奉迎門ではないかと推察されます。
大正4年11月 大正天皇行幸
左:裏面 原寸:長辺14.1㎝×短辺9.1㎝ 右:表面
左:裏面 原寸:長辺14.1㎝×短辺9.1㎝ 右:表面
『大阪毎日新聞 三重版』大正4(1915)年11月19日掲載写真
写真原寸:長辺14.6㎝×短辺10.5㎝
大正天皇の御即位に伴う伊勢行幸です。『大阪毎日新聞』大正4(1915)年11月19日の記事によると、この門の高さは17間(約31m)で、根付きの黄と白の小菊約10万株を使って築き上げたもです。この菊花は宇治山田市が大正3年より奉祝準備として新たに五反歩(約5ha)の畑に植え付けて栽培したのもです。花のが萎れるのを防ぐために門柱にホースを通し、毎朝ポンプを使って散水しました。
昭和3年11月昭和天皇行幸
左:裏面 原寸:長辺14㎝×短辺9.1㎝ 右:表面
左:裏面 原寸:長辺14.2㎝×短辺9.1㎝ 右:表面
左:表面 原寸:長辺16㎝×短辺12㎝ 右:裏面
これは、絵葉書ではなく写真です。裏面には「3.11.13.」「聖上陛下を迎へ奉る山田駅前菊の奉迎門」との注記があります。
左:『大阪毎日新聞 三重版』昭和3年11月17日
竣成を急ぐ山田駅前の奉迎菊花門 写真原寸:長辺14.8㎝×短辺10.8㎝
中:『大阪朝日新聞』 昭和3年11月19日
写真原寸:長辺19.3㎝×短辺13.4㎝
右:『大阪毎日新聞』 昭和3年11月20日
その日の山田駅付近 写真原寸:長辺15.2㎝×短辺17.6㎝
昭和天皇は、京都での即位式の後、昭和3(1928)年11月20日に外宮、21日に内宮を御親謁なさいました。
『伊勢新聞』昭和3年11月16日条によると、菊花奉迎門は高さ五十五尺(約16.7m)で12日から装飾に着手し、17日の竣成の予定でした。菊師は雨を冒して作業を進めていました。正面と天井丈は全部黄菊で埋め、裏面と柱は各色の菊を配して美観を添え、紫色の菊は恰も瑞雲をかたどっているようでした。また、中央正面には燃えるような赤菊をで旭光をかたどっていました。また、夜は同門を照らすことになっていました。
また、『大阪朝日新聞』昭和3年11月19日条によると、山田駅前の奉迎菊花大門用の菊花の出来が悪かったため、他に注文したので費用が五千円以上を突破したようです。
さらに、『昭和大礼三重県行幸啓記』によると、大正4年と同様4月から東京の菊師を迎え、黄紅白1万余株の菊を取り寄せ、5反歩に植え付け管理したようです。
『大阪毎日新聞』 昭和3年11月20日
写真原寸:長辺33.6㎝×短辺11.3㎝
奉迎門と山田駅の間にある建物は小川旅館(現小がわビル)です。
左:『大阪朝日新聞』昭和3年11月19日
神宮御親謁の儀鹵簿(18日御幸道路にて予行)
写真原寸:長辺17.2㎝×短辺11.2㎝
右:『大阪毎日新聞』昭和3年11月21日
奉拝者堵をなす御幸道 原寸:長辺20.9㎝×短辺13.6㎝
いずれも、徴古館前の風景です。
〔参考文献〕
倉田正邦 『宇治山田年代記』 昭和57年5月
三重県郷土資料刊行会
p.176,202
伊勢市 『伊勢市史』 昭和43年3月 伊勢市 p.916
三重県 『昭和大礼三重県行幸啓記』 昭和6年3月
p.104
『大阪毎日新聞 三重版』大正4年1月19日
『大阪毎日新聞 三重版』昭和3年11月17日
『大阪朝日新聞』 昭和3年11月19日
『大阪毎日新聞』 昭和3年11月20日
『大阪毎日新聞 三重版』昭和3年11月20日
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